はじめに
学校教育から社会人研修、果ては幼児教育にまで広がる英語教育。 だが、これだけ世間に英語学習が浸透しているにもかかわらず、本質的な問いに踏み込もうとする議論は少ない。
「臨界期を過ぎた大人が、果たして英語の母語話者のように話すことは可能なのか?」 この問いに真正面から向き合う教育者は、驚くほど少ない。
英語学習があたかも母語話者のように話せることをゴールとする今の風潮には、大きな矛盾がある。 その矛盾と向き合い、現実的な学習目標を定めることが、日本の言語教育の未来を見つめ直す一歩となる。
臨界期を過ぎた言語習得の限界
「臨界期仮説(Critical Period Hypothesis)」という概念がある。 これは言語習得には年齢的な臨界点が存在し、それを過ぎると母語のような流暢さを獲得することが難しくなるという理論だ。
多くの研究で、思春期以降に新しい言語を学び始めた場合、ネイティブの発音や文法直感に到達することはほぼ不可能だとされている。 実際、文法は身についても、微妙なイントネーションや表現の選び方には明確な差が残る。
それにもかかわらず、今の英語教育では「ネイティブのように話せる英語」を理想とする風潮が根強い。 これは現実との乖離であり、学習者に不必要な挫折感を与えてしまう要因にもなっている。
本当に目指すべき英語力とは何か
そもそも、我々が英語を学ぶ目的は何か。
観光のため? ビジネス交渉のため? あるいは、異文化の理解のためだろうか?
目的によって、必要な英語の「レベル」はまったく異なる。 すべての人がCNNを字幕なしで理解できる必要などない。 必要なのは、相手の文化背景を理解し、自分の考えを的確に伝える「運用力」だ。
つまり、目指すべきは「ネイティブのように話すこと」ではなく、 「異文化を理解し、相互に尊重しながら意見を交換できる日本語話者」なのではないか。
多文化理解を土台とした言語教育へ
英語学習を通じて得るべき最大の成果は、「自文化を俯瞰し、他文化に敬意を持つ姿勢」だ。 発音の流暢さや文法の正確さだけではない。 文脈を読み取り、相手の立場を想像する力こそが、これからのグローバル時代に必要とされる。
その意味で、英語はあくまで「手段」であり、「目的」ではない。 日本語を母語としながら、異文化とつながる回路を持つことが、より実践的な言語運用能力といえる。
まとめ
英語教育において重要なのは、「何を目指すのか」という学習の軸を明確にすることだ。 臨界期の現実を無視し、ネイティブ至上主義にとらわれる限り、学習は挫折と誤解を生む。
我々が育てるべきは、世界に向けて自分の文化と価値観を伝えられる、日本語話者である。 そしてそのためには、言語教育が「多文化理解」という視点を持つことが欠かせない。